逝く者、いくもの

29章

 その宵は、本多にとって人生でいちばんの葛藤の夜となった。
 全身を包みこむ高熱も腕の痛みすらも消えさるほどにひたすらに悩み、いつしか息を吸うことも忘れるほどにもだえ苦しんだ。
 体とは感情に正直なもののようだ。そう、今にもこの体は、箱館病院を抜けて大鳥のもとに駆けつけようとしている。
 それを留めるのは理性でしかない。
『死なないでください』
 あの小五郎の言葉は胸に小さな刺のように突き刺さり、それは徐々に食いこんで本多に鋭い痛みを与え続ける。
 ……死なないでくれよ、本多。
 今まで大鳥が何度も何度も同じ言葉を本多に突きつけてきた。
 何百回も聞いているうちに、少しだけ大鳥に感化されたと思えるときはあった。だが心の根本は変わることはない。
 ……大鳥の盾となって、大鳥の身を守って死せれば本望。
 ……大鳥の笑顔を守るために、この身は盾にも剣にもなる。
 それだけが本多が蝦夷で生きる「道しるべ」とも言える願いだったのだ。
 それが、同じ言葉だというのに、小五郎のたった一言でこの身はこうまで揺らいでしまう。小五郎の言葉には、思いが込められ過ぎている。大鳥とは違った意味で痛いほどに心に響いてしまうようだ。
 わずか三月ほど前に知り合った労咳患者の言葉が、なぜにこれほどに染みわたるのか。本多には分からない。ただ小五郎を見ていると、痛いほどに、その身がどれほどに大切なものを失って

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きたかは察することはできた。
 この蝦夷に死にに来たという小五郎。大鳥の盾となって死すことのみを夢想する我が身。
 その「死」に対する思いが知らず知らずに共感となり、妙に傍らにいるのが居心地がよいとまで思うときがあった。
 本多はゆっくりと瞼を開けると、そこにはうつらうつらと船を漕いでいる小五郎の姿がある。
 心底で今が抜けだす格好の機会だと叫ぶ声があった。だがもう一方では「抜けだして何ができる」と現実を突きつける声もある。
 爪が食い込むほどに手を握り締めて、その痛みすらも感じないほどに、今の本多の心は迷いで苛まれていた。
(今すぐにここを抜けださなければ……)
 本日の七重浜への夜襲には間にあわない。
 今はおそらく月は雲に隠れているのだろう。先ほどから時折目を開けては窓を見たが、そこから月明かりが差し込むことはついぞなかった。
 右足がかすかに動き、そうこれが時間的にも七重浜に駆けつけるならば最後の時となるだろうと本多は思う。
(何も役立たなくても……せめて弾よけになれば……)
 理性に抗うように感情の発露がまた本多の足をわずかに動かした。
 今だ。
 今、動かなくては、この身は永遠に後悔をするかもしれない。
 起き上がろうとして無意識に左手で身を支えようとしたとき、その体を稲妻が貫いたかのような激痛が駆けめぐった。
「……ッ!」

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 歯を食いしばってうめきは漏らさなかったが、その際にポタリと汗が頬に伝った。
 激痛は本多の意識をも根こそぎ奪おうとする。それに抗おうと必死に唇を噛んだ。唐突に口中に血の味が広がったときに、不意に本多の脳裏に一つの光景がよぎった。
 あれは戊辰の宇都宮の一戦だ。
 門前を死守しようと先陣に立っていた本多の背を銃弾がかすめた。あのときの衝撃は落命を予感させたが、それでも意地で馬にしがみついて耐えた。仲間の誰かが気づき、本多を担いで城内の医者のもとに運んでくれたときには意識がなかったらしい。
 数刻、意識は戻らなかった。その間に何度か手を握る温かな感触を感じたことを覚えている。
 うっすらと目を開けたとき、大鳥の顔があった。
 いつも敗戦であろうとにこにこと笑っている大鳥が、本多の顔を見据えながら泣いていたのだ。
(……大鳥さ……ん)
 あのとき、何を我が身は感じたのか。必死に手に「動け」と命じて、どうにか大鳥の顔に手を伸ばして、その涙に触れながら……なにを思ったのか。
 ……この人の笑顔を自分は守りたい。
 そのためにならば、この身はどうなろうと構わない。剣となり盾となって大鳥を守り抜く。
 過去の感傷により、不意に本多の胸に込み上げてきたのは、せつないほどの痛みだった。
(私が死んだら……)
 今まであえて考えより外してきた思いが、胸の蓋を開けて飛び出てくる。

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(……私が躯を晒したならば……)
 大鳥は泣くのだ。喜怒哀楽を無くしたかのような無の表情でポタリポタリと涙を落として………泣くのだ。
 ……死なないでくれよ、本多。
 大鳥を守って死ぬことを本願としていたため、我が身が死んだ後のことなど何一つ考えもしないで、ひたすらにどれほどに大鳥に心配させようとも無茶をしてここまで来た。
(私は……いちばんに愚かだ)
 今、初めて夢想する。
 大鳥を庇い、鉄砲の弾にあたり息絶えた自分の姿。
 使命を全うして満ち足りた顔をして自分は死んだだろう。
 それは本多が夢想する最善なる死の姿だった。
 だか、本多が考えもしなかったその先の光景では、大鳥が泣いている。表情なく言葉もなく、ただ目から涙をポタリポタリ落として、静かに泣いている。
 その頬に流れる涙をぬぐいたくても、息絶えた我が身にはどうすることもできない。
 笑ってほしいのに。大鳥の強さの証とも言える笑顔を守るために、すべてを投げうつと決めたと言うのに。
 我が身の愚かさが、大鳥からその証をも奪い去る事実に、ここまで来てようやく気づいた。
 目を開けて、大きく息を吸う。
 瞳から無数の涙がこぼれ落ちていったが、それをぬぐうことなく、本多は天井を見据えた。
 ……必ずその身は傷一つなく、俺のもとに戻ってきますように。
 その言葉を大鳥はどんな思いで口にしたのだろうか。

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 大鳥の心情を思いやると、この身が張り裂けるほどに苦しい。
 大鳥の笑顔を守るはずが、この我が身自身がいちばんに大鳥を苦しめていた事実に、本多は気づいてしまった。
(……大鳥さん……大鳥さん)
 ひたすらに心底で名前を呼び、虚空に右手を伸ばして、本多はその手を握り締める。
 今、七重浜に刀を杖にして向かえば、おそらくこの身は果てるに違いない。
(大鳥さんの笑顔を守るには……)
 いつも大鳥の傍らで剣となり盾となって動きながらも、決して死んではならないことを、今となって自覚した。
(なんと……難しい……)
 それが大鳥が「死なないでくれ」と本多に突きつけていた言葉の真髄のような気がして、妙に哀しく、そして狂おしく、愛しい気分となる。
 もう一度、大きく息を吸った。
 そして右手を下ろし、その手で足をポンと叩く。
 足手まといでしかないこの身が夜襲になど加われば、味方に迷惑しかかけないだろう。
 どれほどに駆けつけたくても、どれほどに大鳥の側にいたくても、今のこの身ではどうにもならないのだ。
 今の本多ができることは、この傷ついた身を一刻も早く完治させることと、祈り信じることくらいなのかもしれない。
(信じる……か)
 今まで一度としてこの言葉が脳裏によぎったことはなかったというのに、今はただひたすらに信じてみようという気になっている。

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 大鳥圭介という男の武運と悪運を。藁にしがみついてでも生き抜くというそのしぶとさを。
 信じてここで寿命が縮む思いで待つのも、我が身の愚かさが招いた罪なのかもしれない。
 もう一度、目を閉じてみる。脳裏に大鳥の姿が映った。
『本多』
 大鳥は笑っている。満面の笑顔で嬉しそうに本多に向けて笑っている。
 心のどこかでこれで良いと思った。
 この決断を翌日には悔いることになろうとも、今このときだけは、本多自身は納得していた。


 五月一日、早朝。
 小五郎が飛び起きたとき、目の前のベッドはもぬけの殻だった。しまったと思っても後の祭りだ。気は張り詰めていたというのに、いつしか睡魔に負けてうとうととしてしまったようだ。
 ベッドを睨むと、不意に穏やかな気を感じて縋るような思いで窓に視線を向けると、そこには朝日を浴びて佇む本多の姿があった。
「……迷いました」
 安堵の吐息を漏らした小五郎に、優しい声音が注がれる。
「何度も何度もこの刀を杖にして七重浜に向かおうと思いました。今でもこの身は七重浜に駆けつけたい。…それでも……」
 軽く振り返って、昨日とは打って変わった穏やかな本多は、
「……私は死んではならない身だと……今さらながらに思い知りました」

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 妙にさっぱりとした顔をしている。
 まるで憑き物が根こそぎ落ちたような顔で、思わず小五郎は見惚れてしまった。
「ただ死ぬために……七重浜に向かうことは……今の私にはできません」
 何が本多から「死神」を落としたのかは小五郎にはわからない。
 小五郎自身、松前に死ぬつもりで突入し、山田市之允と再会したあのとき。山田が必死に紡いだ「お願いだから死なないで」という言葉がこの耳に伝うまで、死神は一度として離れることはなかった。
 夜の闇の中で、本多が苦しみもがいて出した結論は、死神を追い払うほどに強き意志であったことは想像することはできる。
「小五郎さんのあの言葉がなぜにこうまで胸に染みたのか」
「……私の言葉ですか」
「死なないでください、というあの言葉です。不思議でした。大鳥さんに何度も言われてきた言葉だというのに、あなたが言うと違う言葉に聞こえたのです」
 本多はゆっくりと歩を進め、ベッドにそっと腰をかけた。
「あなたは……おそらく多くの大切な人を失ってここに来たのですね」
「………」
「大切すぎる人を失って………この地に死にに来るほどに大切で。そんなあなたの言葉だから……」
 かつて死出の道を駆けていく友に言えなかった言葉を、小五郎はそのすべてを込めて本多に向けた。それが伝わったのかと思うと、素直に嬉しいと思うことができる。

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 小五郎にとっての大切すぎる人は駆け足で黄泉にと逝ってしまった。
 哀しみの涙を流す暇もなく駆け続け、維新という大業を成したそのとき、その存在の大きさと喪失の痛みが体に押し寄せて、小五郎は耐えられなくなってしまっていた。
 人は蝦夷に駆けた自分を「魔がさした」とでも言うかもしれない。
 それでもあのときは、その「魔」に身をゆだねなければ、この身は息を吸うこともできないそんな状態だった。
 そんな自分が「死」を夢想する本多に対して向けた言葉が、わずかでも重りを持って響いたというならば、ここまで来たことが無駄ではなかったと思うことができる。
「私は、思いあがりかもしれませんが………大鳥さんをあなたのようにしてはならないと思ったのです」
 本多はしっかりと小五郎の黒曜の瞳をとらえながら、話を続ける。
「私は独り合点をしていたのだと思います。大鳥さんの笑顔を守るためならこの身をいかようにも差し出そうと思いこんでいました。そう私は自分が死んだ後のことをなにも考えないようにしていたのです」
「……本多さん」
「きっと私は本望の死を得られるでしょう。けど、残された人に自分の死を背負わすことになる。大鳥さんは強い人だからきっと笑っていてくれると、どこかで思っていた自分が情けないです。あの人は………それほどに強くはない人だと私は知っているはずなのに」
 この数年、傍らで大鳥を支え続けた本多には、大鳥圭介という

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男の笑顔に隠れた脆さを知る機会が十二分にあったことがうかがえる。
 小五郎を置いて逝った仲間たちも、よくよく心得ていただろう。自分たちが死ねば小五郎がどんな思いに苛まれ、その死に縛られ続けて生きていくのが分かっていたはずだ。それども「後は頼みます」といった彼らは、小五郎自身が脆さを超えて強く生きていくと少しでも考えたのだろうか。
(いや……違う)
 おそらく信じたかったのだ。そして自らの死後に小五郎がどうなるのかを、あえて考えないようにしていたのではないか。
(そうならば……本当に身勝手で)
 自らの信念に生き、その信念に殉じるものは残されるものについてはあえて意識しないで生きるのかもしれない。
 そこで小五郎はハッとした。
 数日前の自分自身も、残される人については何一つ考えずに死にに走ったではないか。
「大鳥圭介という人を信じ切れていなかったのかもしれません」
 見れば少しだが本多の息があがっていることに、小五郎は気づいた。
 立ち上がって本多の頬に手を添えると、かなりの高熱だ。
「本多さん」
 本多は笑った。
「横になります。一時でも早く回復しないとならないですから」
 昨日までの本多とは思えないほどの素直さなので、ついつい小五郎は疑いのまなざしを向けてしまった。
 本多がベッドに横になるのを見届けて、小五郎は井戸に水を汲みに行こうと桶を持った。

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「ほぉ。五分五分の可能性と思っていたが、よぉく思いとどまることができたものだ」
 それとほぼ時を同じくして、高松が扉からヒョイと顔を覗かせた。
「……ご心配をおかけしました」
「それに見事なまでにさっぱりした顔をして。死神は見えなくなっているよ。さて、どうやって死神を追い払ったのかをとくと聞くとしようか」
 高松は部屋に入り、先ほどまで小五郎が座っていた椅子に座って、つかさず本多の脈を看る。
 本多はそんな高松の顔を見上げて、ぽつぽつと話しだした。
「……いちばんに簡単で、いちばんに難しいことです」
「人が人生の岐路に立ち、そこから動きだすのは、得てしてそういうことなのかもしれんよ」
「私は……大鳥さんを泣かせたくはないのです」
「………」
「ただ、それだけです」
 すると高松は満面の笑みを浮かべて、本多の頭をくしゃくしゃと撫ぜた。
「人がその境地に至るのも、他人の心に気づくのも、それはそれは難しいことかもしれんよ」
 小五郎は桶を持って静かに部屋を出た。後は高松に任せた方がよいと思った。
 歩きながら小五郎は思う。今の本多のようにかの仲間たちもほんの一瞬でも残される者の身を考えてくれたならば、何かが変わっていたのかもしれない。
 だがそれはとても難しいことだ。国事に生きるものは、

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その一点に縛られ、他を省みる余裕は持たない。かの吉田松陰も久坂玄瑞も……高杉晋作もそうだった。
 そして小五郎自身も「死」にとらわれて全てを捨てた。残されるものについてあえて考えようともせずに、この未開の地に足を踏み入れたのだ。
 ただ一つの「思い」にとらわれたとき、人はなんと身勝手に生きるのかと今となっては思う。残される者はたまったものではなかろうに。
(これでは……おまえたちに文句が言えないね)
 残して逝く者の心も、残される者の心も、今は小五郎の胸の中で脈動していた。
 井戸に向かうと、まだ早朝だというのに事務長の小野と医者の蓮沼が難しい顔をして立っている。
 朝の挨拶をして水を汲みながら、二人が全く睡眠を取っていない顔だということに小五郎は気づいた。
(諏訪さんの看病を不眠不休で……)
 この二人は毎日、祈るような思いで諏訪の命を見つめているのだろう。
「本多くんは抜けださなかったのかい」
 そう小野が尋ねてきた。
「はい。……相当に迷ったようですが」
「あの頑なな伝習隊の総督が、よくぞ思いとどまったものだ。俺はてっきり大鳥さんのもとに這ってでも行くのではないかと思っていたよ」
 笑いながらも小野の目は疲れ切っていた。
「なにか栄養に良いものを彼には取らせないと……」
 蓮沼の目も小野以上に疲労が色濃くにじんでいる。

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「今の時期は山菜が豊富だ。野にあるものはなかなかに滋養がある。本多くんの食前には菜の物を多く入れるように言っておこう」
 それに軽く頭を下げて小五郎は桶に水を入れて病院内を忍び足で歩く。
 まだ早朝だ。多くの患者が眠りの世界にいる時間である。
 諏訪の病室の前を通る際はさらに足を忍ばせて歩き、部屋に戻ると、本多は眠っていた。
「一睡もしなかったようだよ」
 高松は本多の顔をジッと見据えている。
「相当な苦悶だったろう。……薬に眠り薬をたんと入れておいたから、夕方まで目覚めることはないと思う。彼には……休息がいちばんの糧になるはずだ」
「……先生」
「なに、心配しなくても大丈夫だろう。大鳥さんはしぶとい。きっといつもの笑顔でここに本多くんを迎えに来る。それまで……君が本多くんに付き合ってやるといい」
 小五郎がこっくりと頷くと、高松は楽しげに笑った。
「それと小五郎くん」
 そして内緒話をするように耳元でこんなことをささやくのだ。
「土方くんが休暇でこっちにくるらしいよ。新選組の屯所近くに家を借りているから、そこで休むだろう。明日にでも見に行ってくるといい」
 二股から撤退し五稜郭に戻っていると聞いてはいたが、土方の姿を見るまでは「生きている」という感触を確たるものにはできずにいた小五郎だった。
(歳どのが……戻ってくる)

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 嬉しいと思う心の反面で、二股口の激戦を思うと胸が痛い。
 あの一戦で征討軍の大物が打ち取られたという話は聞き及んでいた。その名は小五郎は意識して耳に入れはしない。土方から聞かねばならないことだと自らに戒めてきた。
「本多くんの熱も夜には下がるだろうから、散歩がてら連れ出してくれるとありがたい」
「……大丈夫なのでしょうか」
「鍛えている人間なら五日くらいで抜糸はできるだろうし、熱が下がれば後は体力を取り戻すために体を動かすことが大切。彼は剣士だからね。体がなまるのは許せんだろう」
 小五郎が軽く頭を下げると、高松は少しおどけた顔をして、
「もう見張りはせんでもよいよ」
 と言った。本多からは「死神」は離れていったので、無茶はしないだろうという高松からのお墨付きが出たということだ。
「高松先生!」
 そこに小野が血相を変えて飛び込んできた。
「諏訪が……」
 高松はすぐに踵を返し走って部屋を出て行く。気になった小五郎も後に続いた。諏訪はすでに虫の息の状態だった。
 今日明日をも知れぬという中で、諏訪の周囲の会津の人々の緊張はいやがおうにも高まって、今にも弾けそうだ。
 個室のその部屋には多くの人が集まっており、わずかに見える先では諏訪が唇を必死に動かし何かを伝えようとしていた。
「諏訪さん。もういい。もういいですから。今はゆっくりと休んでください。もう少し良くなったら、あなたの言いたいことは何でもお聞きしますから」
 それは嘆願にも等しい蓮沼の言葉だった。

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 高松は蓮沼の横に座り、ジッと諏訪の顔を凝視している。その顔から何かを読み取ろうと必死だ。
「……諏訪」
 小野が盥で絞ったぬぐいで諏訪の顔を拭き、それをそっと額に乗せる。
 そこにいるのは諏訪という男をよく知り、その命を大切にしている会津の仲間たちだった。
「ここ……に」
 諏訪の目は開いていない。その手を蓮沼が万感の思いを込めて握り締めている。
「……だれか……たずね……てきた……ら」
 ………ここに誰か訪ねてきたら、と諏訪は言葉を紡ぐ。
「さ……つまでも……ちょう……しゅうでも」
「諏訪さん!」
 その後を蓮沼はあえて遮るが、諏訪は命を込めて言葉を紡ぐ。
「わた……しのかわりに……おのさん。たのむ。……おたのみ……する」
 自分の代わりに征討軍と和平の交渉をして欲しいと言うのだ。
 小野は渋い顔になったが、諏訪の前に進み、蓮沼の握っているその手に自らの手を重ねて、ただひとつ頷いた。
「今は何も考えるな。よくなれ、諏訪。一緒に会津に帰ろうな」
 諏訪は苦しげに呼吸を繰り返して、また意識を手離した。
 それは生への執念とも言える。高松の診立てでは当に心臓が止まっていてもおかしくない状態だった。それを意志の力だけが諏訪という男を生かし続けているというのだ。
(……執念)
 小五郎には一度として心によぎったことはない、

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それは途方もない恐ろしいものに感じた。
「誰か、景気づけに諏訪に彼岸獅子の笛を聞かせてやってくれ」
 小野の叫びにその場にいた年若い遊撃隊士が笛を奏で始める。
 本来は春を告げる音色が、今は物悲しく病室に響き渡った。
「そんな役目を俺に押しつけるな。なぁ諏訪よ。こういうのは公用方だったおまえの仕事だろうが」
 小野の言葉は意識のない諏訪に届いているのかは知れない。
 小五郎は身をひるがえして園長室に戻った。
 眠る本多の穏やかな顔を見つめながら、自らの身体をギュっと抱きしめる。
「……」
 諏訪の「執念」に等しい生きざまが、無性に恐ろしくて、ただ怖くて。
 そしてあの執念と同様のものを持って、生きて、死んだ仲間が、確かにこの自分にもいた。

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逝く者、いくもの 29章